耕作放棄地を「宝の山(里山)」に変える。

なぜ耕作放棄地が増えているのか。

耕作放棄地が増える最大の要因は「農家の高齢化と後継者不足」だと言われています。
農水省の調査によると、2015年の農業就業人口は197.7万人だったのに対し、2020年は152万人となり、5年間で約23%減少しています。また、49歳以下の農業従事者は2015年には13.8万人だったのに対し、2020年には約42%減の8万人になっています。

農業就業人口が減ると耕作放棄地が増えるわけですが、最大の原因は「儲からないから」に他なりません。
国内の農業生産量が減少すると食料自給率が下がります。昭和40年(1965年)に73%あった日本の自給率は、令和2年(2020年)には37%(カロリーベース)まで低下しています。それは、輸入への依存という大きな問題につながり、低価格の輸入品→国産価格の下落→儲からない農業→廃業・離農→耕作放棄地の拡大と日本の農業は悪循環の一途をたどるわけです。当然耕作放棄地は、条件不利地を中心に広がっていきます。

見捨てられた条件不利地の歴史。

戦国時代より、各大名は国力を高めるため競うように米の増産、農地開拓に取り組みました。江戸時代初期の17世紀以降は、江戸幕府や各藩の奨励のもと、役人や農民たちの主導で湖や潟、浅瀬などで埋め立てや干拓が行われ、陸地が増やされ耕地とりました。また、丘陵地帯や台地、谷地(やち・やつ、台地と台地の間の谷間の湿地帯)など内陸部の荒れ地でも開拓が行われました。この開墾までの流れは新田開発と呼ばれました。

全国各地に集落名として残された「新田」は上記の経緯を経て、新たに田や畑などとするため開墾してできた農地周辺に形成された集落と推察されます。(「○○新田」と名付けられた集落は、開発の中心となった村や人物の名前が入ることが多いようです。)
御多分に洩れずご紹介の集落は、佐久市望月新田(2017年の合併前は望月町春日新田)。やはり江戸時代の新田開発に伴い形成された集落です。第二次大戦当時は都会からの「疎開」も受け入れ、戦後の食糧難に対応するため耕作が盛んに行われていました。

しかし、昭和40年代以降の「機械化」により効率の良い農業が求められ、各地で「耕地整理」が推進され、土木用重機や農業機械の進入しにくい農地は徐々に見捨てられていきました。これが「条件不利地」の始まりです。
農村原風景として紹介されている「棚田」も、「条件不利地」であったため、その風情を現在に伝えています。

耕作放棄地再生の最大のポイントは、
「労力以上のお金を生み出せるか?」

集落から少し離れた山間(やまあい)の農地約4,500坪(300坪=10a=1反=1,000坪)、(1反=1町)を再生に向けた整備を行っています。30年程前まで稲作が行われていました(冷害によりタイ米を輸入した年を機に放棄)。お米の反収(1反当たりの売上げ)は現在良くて12万円と言われていますが、土壌条件が悪くそれだけの反収があったかは疑問です。また、既に森林化が進んだこの場所を水田に変えるのは至難の業。
以後何を栽培していくのかは、整備を進める間に試行錯誤していく予定です。

原価「0円」をお金に換える。里山錬金術。

とはいえ、この耕作放棄値には多彩な植物が自生しています。豊富な種類の山菜は春のごちそう。子どもの頃はこの時期と秋のキノコの時期は、食卓に連日並び「貧乏臭い」おかずが惨めでなりませんでした。しかし一度故郷を離れ、歳を重ねると「旬を感じる最高の贅沢品」と思えて来るから不思議です。
〉この耕作放棄地を利用した「山菜収穫体験」へ

また、周辺には2週間ごとに景色を変えていく多種の山野草も自生。山林化が進んだ林の中には自然が育てた造形美の苔が点在しています。料理の世界では「最高のスバイスは“思い出”」と言われているようです。
「幼少の頃食べた自然の山菜」「学校の帰り道に咲いていた山野草」。里山にノスタルジーを求める方々は少なくありません。どうしようもない耕作放棄地ですが、価値を認めて頂ける方には「宝の山」かも知れません。
そんな皆様のお役に立てればと思い、里山の資産を商品化するチャレンジをしています。